将棋を学ぶ 2018年11月21日
はじまりは家元最強VS在野最強!?将棋における振り駒のお話
対局を始める前に行う振り駒ですが、子どもたちから、「なんで振駒するの?」と聞かれることがあります。じつは振り駒の由来には興味深いエピソードがあるのです。おなじみ将棋史の専門家の方にお聞きして、まとめてみました!
家元最強VS在野最強、はじまりは互いの威信をかけた戦い
振り駒の起源は、江戸時代初期の1650年頃といわれています。将棋家元二代目の二世名人、大橋宗古(そうこ)に、家元ではない在野(ざいや)の強豪、檜垣是安(ひがき・ぜあん、これやす、ともいいます)が挑戦したときのことです。
名人・九段の宗古は、すでに70歳を超える高齢だったため、弟子で娘婿の伊藤宗看(そうかん)に勝負を託すことになりました。宗看は八段。家元の大橋本家、大橋分家に続き、伊藤家を興し、次期名人は確実という実力者でした。現在、女流棋界のトップに立つ里見香奈女流四冠と同じ、島根県の出雲(いずも)の出身ですね。
それに対し、是安は家元ではありませんが、町道場では無敵の強さを誇っていました。プロ・アマという段位の区別のない時代で、五段近い腕前だったようです。在野棋士では最強クラスだったのでしょう。現在のプロ将棋界で流行する雁木戦法の使い手としても知られました。
是安はハンデのない平手の対局を望んでいたようですが、手合いは宗看の「角香交じり」。宗看が角落ちと香落ちを1局ずつ指して2局で一つの勝負とする対戦方法です。家元を管轄する寺社奉行など江戸幕府の人たちが間に入って決めたのでしょうね。
2局指して1勝1敗になったら、どうするの、と思われるでしょう。でも、駒落ち将棋は本来、上手(うわて)が下手(したて)に指導するものであって、勝負を競うものではありませんでした。とはいえ、角香交じりで決着をつけることになった家元最強と在野最強の勝負。一方には将軍家の将棋指南役としての権威がかかり、もう一方には庶民であるファンの大きな期待がかかっています。どちらも負けられない対局です。ドキドキしますねー。対戦前、角落ちと香落ちのどちらから対局するかで、双方が譲りませんでした。家元の宗看はハンデの大きい角落ちを先に指して、それに完勝すれば、よりハンデの小さい香落ちは指さずにすむだろうと考えたのかもしれません。一方の是安は香落ち対局を優先してほしいといいます。香落ちで快勝すれば、次は平手で挑むつもりだったのでしょうか。
そして、その時に考案されたのが、振り駒でした。駒を振って、先攻する側を決めるわけです。現在、サッカーなどのスポーツは試合前にコイントスをして、その表裏によって先に攻める側を決めるのと似ていますね。将棋界は400年近く前に、すでに採用していたのです。 振り駒の結果、是安の希望通りの香落ちが先に指されることになりました。さて、この勝負はどうなったのでしょうか?
天才棋士・宗看の実力からすればハンデとしては小さいため、是安に勝ち目はないと思われましたが、なんと下手の是安が勝ってしまいます。戦前の予想では、是安が角落ちで勝ち、宗看が香落ちで勝てば、双方納得するだろうと思われていたようです。
後がなくなった宗看は、決死の覚悟で角落ち戦に臨みます。宗看の「宗」は、宗家(そうけ)という家元の別の呼び方から一字取り、「看」は先が見えるという意味でした。看という漢字は「目」の上に「手」と書きますね。皆さんも遠くを見るときに、よく見えるよう目の上に手をかざして見ることがあると思います。「看」には先がよく見える、天才的な感覚を持った人ということを示しており、それほどの棋士が家元でない人に負けるわけにはゆきません。
ただ、宗看が角落ちで負ければ、是安から平手対局を挑まれるかもしれません。そうなれば、権威失墜、次期名人の座も危うくなります。しかし、宗看は不利なはずの角落ち上手の将棋を徹底的に粘り抜き、是安を破ってしまいます。逆に必勝を期して臨んでいた是安は気落ちしてしまい、後に血を吐いて亡くなったと伝えられることから、この一戦は「是安 吐血(とけつ)の一戦」として語り継がれることになりました。
実際には、このときに是安が亡くなったというのは事実ではないようです。江戸など当時の大都市で流行していた、高座で講談師が武勇伝や敵討ちの話などを面白おかしく話す「講談」で吐血の話が付け加えられた話のようです。当時も今も、将棋はそれだけ世間の話題の中心だったのでしょうね。
振り駒はなぜ5枚なのか
現在の振り駒は、対局する両者がすべての駒を並べた後、年齢や段級が上の人の側の歩を5枚振りますが、江戸初期の対局ではどうだったのでしょうか。残念ながら確たる記録はないようです。将棋史の研究者に聞くと、宗看と是安の対局では、余りの歩を1枚振ったのではないか、という意見が多いようです。現在のように一度並べた歩を取って振るよりは、駒袋に入っていた予備の歩を1枚振ったと考えるのが自然なように思います。
現在のプロ将棋界では先手番がわずかに有利といわれていますが、江戸時代はそうした感覚は薄かったようです。対局も手合割りというハンデ戦が主流で、三段差は角落ち、二段差は香落ち、一段差なら上位者が後手を持つという風に決まっていました。同じ段位でも、前回指した時と先手後手を替えるなどすれば、振り駒をする必然性があまりなく、今のプロ棋士のように「重要な対局なので先手番がほしい」と記録係が歩を振る様子をじっと見るという光景もなかったのでしょうね。江戸初期に江戸城などで指された家元同士の対局では、先手が居飛車、後手が振り飛車という将棋が多かったので、振り飛車が好きな人は振り駒をせずに、最初から後手を持ちたいぐらいだったでしょうね。
振り駒が5枚になったのがいつからか、はっきりしませんが、昭和10年(1935年)に名人戦が創設された時には5枚振っていました。日本将棋連盟は大正13年(1924年)に東京将棋連盟として発足し、その後、昭和2年(1927年)に関西の棋士が合流したことで、日本将棋連盟と改称しました。その前後から対局の作法などが統一される中で、振り駒も5枚が定着したのではないかと言われています。
木村義雄名人に土居市太郎八段が挑戦した昭和15年(1940年)の第2期名人戦第1局では、立会人で両者の師匠である関根金次郎十三世名人が3枚の歩で振り駒をしようとしたところ、対局者が苦笑しながら「先生、歩は5枚でお願いします」と言ったという逸話もあります。関根十三世名人の現役時代は、振り駒は奇数であれば問題ない、というおおらかさがあったのでしょうね。
また、昭和12年(1937年)、次期名人が確実視されていた木村義雄八段と、大阪が生んだ伝説の棋士、阪田三吉先生(後の贈名人・王将)が戦った読売新聞社主催の特別対局「南禅寺の決戦」では、振り駒をしませんでしたが、公式発表では、振り駒によって阪田先生が後手になったことにするという異例の措置が取られました。
阪田先生は大正時代、大阪の経済界を中心とした後援者に強く推される形で「関西名人」を名乗ったところ、東京の将棋界は認めず、阪田先生を事実上、将棋界から追放したという経緯があります。南禅寺の決戦で将棋界に復帰した阪田先生は、それまでは事実上の引退状態であったのですが、一度は名人九段を名乗った以上、当時八段だった木村先生と平手振り駒では適切な手合いではなく、一段差は上位者後手というハンデにこだわったと考えられています。
振り駒はただ歩を5枚振るだけのようですが、歴史に残る名棋士たちを取り巻くいろいろな事情によって、数多くの逸話を残しているのですね。
※今回の記事を制作するにあたり、元日本将棋連盟・将棋歴史文化アドバイザーの西條耕一氏よりアドバイスをいただきました。この場を借りまして、お忙しい中ご協力いただきましたこと、心より感謝いたします。
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