連載:女流棋士と私のお母さん 2017年6月29日
「女流棋士と私のお母さん」vol.3 鹿野圭生女流二段
特別連載の背景について
いつつでは、日頃から子どもたちに、将棋をはじめとした日本伝統文化を普及する活動を行っています。
つきましては、実際に幼い頃から将棋に触れてきたという5人の女流棋士が、リレー方式で、将棋の魅力や楽しさ、そしてお母さんとの思い出について発信することで、もっとたくさんの子どもたちや、子育てをするママたちに、将棋を始めてもらったり、興味を持っていただけるきっかけになればと思い、今回の連載を企画いたしました。
そして、本連載3回目をご担当いただくのは、鹿野圭生女流二段です(^ ^)
お忙しい中、快くご協力いただき誠にありがとうございます。
じっと見守るだけで
子どものころからいろいろな習い事をさせてもらっていました。自分の方から習いたいと言ったものがほとんどでしたが、お習字だけは左利きでどちらの手でも鉛筆を持って書いている私を心配した母が習いに行くように手筈を整えていました。当時、将棋は遊びでルールを知っている程度でしたから習いに行く・・・などという発想は全くなかったです。
大きくなってもう一度将棋に出会ったのは、大学に入って一人暮らしを始めたときです。
子どもの時に兄と二人で将棋を指していても一度も勝った記憶が無かったので、こっそり将棋を勉強して兄をビックリさせてやろう・・・(笑)と大学の将棋部に入部しました。事後承諾で母にそのことを告げるとしばらくは言葉も出ないほど驚いていました。中学、高校と運動部(器械体操、剣道)に入っては両親を驚かせてばかりでしたから、今度はけがの心配がない分だけ良かったのかもしれませんね。
しかし、その私のいたずら心が将来一生の仕事になろうとは、夢にも思いませんでした。
将棋部に入って、将棋の面白さ、奥深さに触れてしまった私は憑りつかれた様にのめりこみました。授業の時以外はしょっちゅう部室に入り浸っていました。最初は、超初心者でしてが、一年で初段くらいの力はつけていました。親元から離れていたとはいえ、母は概ね状況は分かっていたと思います。しつけや勉強に関して厳しい母でしたがそこをクリアーしていれば、好きなことをやらせてもらったな・・・と思います。
大学卒業後、プロを目指して大阪に出ていくときにはさすがにハードルは高く、3年以内にプロに成れなければ実家に帰って花嫁修業をする、という条件で出してもらいました。
しかも、自分から経済的な援助は受けないと宣言しました。この時は、さすがに自分を追い込みすぎたかもしれませんが時間制限を設けたことで、苦しいながらも意欲的に将棋に打ち込めました。仕事も、勉強も効率良く・・・をモットーに睡眠時間を削って頑張りました。結果は、ギリギリ3年で無事にプロになることができました。
『 好きなことだったら、たいていのことを辛抱して頑張れる。』という事をこの時に身を以て知ることができました。
現在は、18歳大学1年生の男の子の母親となった私ですが、彼に対してもこの言葉を信じて口を出したい心を押し殺して、じっと見守っています。そして、彼はやはり目標を見つけて自分の夢に向かって懸命に努力しています。
『好きなことだったら、たいていのことを辛抱して頑張れる。』よね。親はじっと後ろで見守っていればいいんですよね。
次は誰かな?
特別連載企画「女流棋士と私のお母さん」では、毎回ご寄稿いただいた女流棋士の方より、次の担当者のヒントを出してもらいます(^ ^)
さて、第3回の鹿野圭生女流二段からのヒントはこちら・・・・
さて皆さん、誰かわかりましたか? 次回の連載は7月下旬。乞うご期待です( ´ ▽ ` )ノ
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