将棋を楽しむ 2019年3月8日
摩訶大将棋の謎に迫る
はるか昔、インドで生まれたとされるチャトランガは、西洋に伝わりチェスとなり、中国に伝わりシャンチーとなり、そして日本に伝わり将棋となりました。しかしながら、現在において将棋とされているいわゆる本将棋は、実は将棋が日本に伝わったとされる平安時代の将棋とは随分ルールが異なります。というのも、国内に伝搬した後も、そのボードゲームは目まぐるしく移りゆく歴史の中で、大将棋に中将棋にと時代や文化に合わせて様々に姿を変えてきたからです。
摩訶大将棋は、将棋の変遷の歴史における1つの形態です。本将棋と比較して将棋の駒や将棋盤のマスが多いこと、持ち駒再利用のルールがないことなどが特徴として挙げられるのですが、実は正式なルールや歴史的史実などについて未だ解明されていないことも多く、将棋史の中でも謎のベールに包まれた位置付けであると言えます。
大阪府にある大阪電気通信大学の高見友幸教授(以下高見教授)は、そんな摩訶大将棋の歴史について探求する研究者の一人です。
2月2、3日の2日間にわたり、高見教授の研究室がグランフロント大阪のナレッジキャピタル アクティブスタジオにて、「摩訶大将棋展 2019 Winter」を開催していたので、高見教授の研究内容についてや、なぜ専門の領域とは異なる摩訶大将棋の歴史的探求に至ったのかなど、高見教授を突き動かす原動力となったエピソードについて詳しくおうかがいしました。
歴史を正しく理解するために
–摩訶大将棋展について教えてください。
高見教授:摩訶大将棋展では、将棋の歴史に関するパネル展示やコンピューター摩訶大将棋による対局体験、摩訶大将棋の対局会などを行っています。
–とってもおもしろそうですね。これは、高見教授の研究室で制作された摩訶大将棋ですね。実物を見ると、盤の大きさや駒の多さに圧倒されてしまいます。
高見教授:ちなみに、この駒は天童の駒師の方にお願いして制作したものなんですよ。今回の展示では、来場者の方にもこの盤駒を使って摩訶大将棋の対局を体験してもらったりしています。
–本格的ですね。しかし、摩訶大将棋を1局するとなると、対局が終わるまですごく時間がかかってしまいそうですが。
高見教授:そうですね。昨日も親子で指している来場者の方がいらっしゃったのですが、長引く対局にお父さんの方は集中力を切らしていました、笑 しかしその一方でお子さんの方はというと、駒の動かし方が分からないなりにも、この動かし方の一覧を一生懸命見ながら、ずっと楽しそうに指していましたよ。
–摩訶大将棋は大人には果てしない感じがしますが、ユニークな動きをする駒やかっこいい名前の駒が多く、駒をたくさん取ることもできるので、子どもたちにとっては楽しいのかもしれませんね。ちなみに、高見教授が摩訶大将棋に興味を持つようになったきっかけは何ですか?
高見教授:今から10年ほど前、研究室でマルチタッチテーブルのアプリケーションの開発を行っており、そこに将棋を取り入れたいと考えていたのですが、せっかくなら、テーブルという大きなディスプレイを活かせるようなものを作りたいと思い、目をつけたのが摩訶大将棋でした。
–もともとゲームのアプリケーションの題材として摩訶大将棋に興味を持ったわけですね。しかしながら、今回の摩訶大将棋展を拝見させていただくと、古文書の漢文を解読していたり、歴史的な出来事と照らし合わせるなど、高見先生の専門の領域を超え、かなり深い部分まで摩訶大将棋を掘り下げているなという印象を受けました。
高見先生:実は、少し指していたということもあり、将棋については知ったつもりでいました。しかしながら、いざアプリの開発にあたり研究をはじめてみると、将棋の歴史がいかに曖昧なものであるのかを知りました。
そこで、私たちが開発するアプリでは、できるだけ当時の摩訶大将棋を正しく再現し、正しく歴史を伝えたいと思うようになった結果、どんどん摩訶大将棋の深みに足を踏み入れるようになったのです。
将棋の歴史の気になる考察
今回、高見教授に将棋史や摩訶大将棋の説明を受ける中で、個人的におもしろいと感じた考察がいくつかあったので、ここで少し紹介したいと思います。
摩訶大将棋は占いだった!?
高見教授いわく、摩訶大将棋は陰陽五行に通じているとのこと。「象棊纂圖部類抄」(将棋について記された文献)の冒頭にある序文に
夫象戯者周武之所造也
上観其象於天文移以日月星辰之度
下象其形於地理列以金銀鉄石之名
と記されているのですが、この2行目の文が意味するところが、「そもそも将棋は陰陽道そのものだった」と解釈できるのではないかとのことです。それを裏付ける根拠としては、50種類ある駒(成駒を入れると73種)は陰と陽で構成されていることや、当時は、天皇は自らが指さず、天皇の周辺にいる人々が対局を行うのを見ていたという史実があることを挙げられていました。なんだか、江戸時代のお城将棋のようなシチュエーションですが、その実は対戦ではなく占いや呪術だったとは衝撃的です。当時の人たちは、摩訶大将棋のどのような局面から何を読み取っていたのかとても気になるところです。
将棋の駒は元々交点に置かれていた!?
将棋というと、駒をマスに置くというのが定番ですよね。私もトラブルの原因にもなるので、将棋教室では子どもたちに駒をきちんとマスの中に入れるようにとよくいっています。
しかしながら、高見教授の研究によると、なんと、摩訶大将棋は交点に駒が置かれていた可能性があるというのです。確かに、インドのチャトランガがどのようなルートを辿って日本に伝来し将棋となったのかについて未だ正式には明かされていませんが、仮に中国経由で伝わったとすると、中国象棋(シャンチー)と同じように交点おきでもおかしくないですよね。
また、高見教授がおっしゃることには、将棋黎明期の将棋盤は平安京を模しているそうです。写真1のように摩訶大将棋の将棋盤を東西方向にすると、将棋盤のマス目と現在伝えられている平安京の条坊(南北に19保、東西に16保)により仕切られた区画がピッタリ合いますよね。しかしながら、これだと現在の将棋のように摩訶大将棋はマス目置きだったということになってしまいます。
それでは、なぜ交点置きだった可能性があるのか。現在、関連学会の情報を収集中とのことですが、ある一説によると、実は平安京は開設当初は今伝えられている街路よりも南北方向にひとつだけ少なかったそうです。つまり、途中でひとつ増やされたというわけです。
この説に従えば、道ひとつ分だけ南北方向に短くなってしまい、マス目置きでは平安京と将棋盤にズレが生じてしまいますが、写真2のように交点置きにすることでズレの問題を解消することができますね。
勝利までの最短手数は3手
タテヨコ19×16の将棋盤(※19×19という説もありますが、高見先生の解釈では16)、互いに50種類96枚もの駒がある摩訶大将棋。1度対局が始まると一体どれくらいの時間がかかってしまうのかと途方にくれそうになってしまうのですが、高見先生いわく、摩訶大将棋はなんと最短3手で勝利をおさめることができるそうです。
摩訶大将棋のルールについては諸説あるのですが、高見教授の研究によると、現在の将棋とは異なりすべての駒が敵陣を突破することで成る訳ではなく、走り駒と呼ばれる1回の手番でもリーチを伸ばすことができる駒は、敵陣に入りその後敵陣から脱出してはじめて成ることができます。そして、走り駒の中でも奔王、龍王、龍馬が成れば相手の王様を捕まえなくても勝ちになるそうです。
このルールを適応すると、初手で奔王の斜め方向への利きを遮る歩をどかし、2手目で相手の最前列にいる歩を取る、3手目で敵陣から脱出して成るという風にすれば確かに勝ちになりますね。
リーチの長い駒の利きを生かすというのは、現在の本将棋でも同じなので将棋が強い人はきっと摩訶大将棋も強いんだろうなぁと思いました。
編集後記
今回ご紹介したもの以外にも、「桂馬は実は今とは違う動きをしていた」や「摩訶大将棋の将棋盤は19×19の正方形ではなく19×16の長方形」など目から鱗な考察をたくさんおうかがいさせていただきました。印象的だったのは、それらのお話しをする際に教授自身がとても楽しそうだったことです。また、教授の写真を撮影させてもらいたいとお願いした際も、「それならぜひ摩訶大将棋を指しているところを撮ってください」と目を輝かせながら研究室の学生さんと対局を始めるなど、興味のある事柄についてとことん楽しむ姿に学者らしさを感じました。
ちなみに、私も開発中のアプリで摩訶大将棋を体験させていただいたのですが、時間切れであえなく撃沈。日頃いつつの活動で鍛えた将棋の知識を活かして勝つつもり満々で挑んだのですが、駒の種類の多さに翻弄されてしまいました。対戦相手だった高見教授の研究室の学生さんと再戦の約束をしたのですが、次は摩訶大将棋の駒の動かし方をマスターし、作戦もちゃんと立ててリベンジしたいと思います。
どうやら、高見教授のまるで少年のようなあくなき好奇心に私も感化されてしまったみたいです(^ ^)
大阪電気通信大学 高見研究室 | https://www.takami-lab.jp |
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